精神的鎖国

自分の毎日の経験で、日本に住んでいる多くの人は心の中が無意識に精神的鎖国になっていると思います、そしてこの無意識な考えは無意識に行動にもなって、こういう行動は日本をガラパゴス化すると思っています。

私の両親は他国に生まれ育ち、日本と血の繋がりなどもありません。ですので、私は日本人でありながら日本人ではないという風によく言われます。

国籍は日本、だから日本人、でも多くの人は日本にいる多数者の人種のことも「日本人」と呼んでいるので、日本人でありながら日本人ではありません。

もしこれは単なる遊び心などで言われているのであれば、正直面白い発想とまで思いますが、残念ながら実際にもっと深い意味があると思います。

私は一人だろうが、友達と一緒だろうが、レストラン、店、飛行機、病院などに頻繁に英語で話しかけられたり、英語のメニュー渡されたり、等々・・・

そして可笑しいなことに、日本語で話ししても、相手が英語に切り替わらない場合も多い。それとも、例えば、何かの書類の記入するとき、何かの用紙渡されたときに、頻繁に「漢字大丈夫ですか?」とか、「日本語大丈夫ですか?」とか、よく聞かれます。

自分の名前はどう読んでも日本人の名前で、人と話しても、大きななまりの日本語で話したりもせず、人はどうしても自分は「外国人」という枠に入れたがる。そしてその外国人の枠には、本物の外国人にも大井の場合が当てはまらない偏見などがあります。

例えば、外国人は日本語が(ちゃんと)話せるわけがありません。

上に書いた通り、私は外国人ではないが、外国人と認定せれる場合が多く、知らない人によく「日本語上手ですね」って誉め言葉を言われます。

これは特に何も感じない言葉・・・のはずなのですが、実際に私は見たところではレベルがどうであれ、外国人、あるいは外国人と認定される人は少しでも日本語話したら、大体「日本語上手ですね」って、呪文みたいに言われます。

なぜなら、外国人は普通に日本語話すわけがありません、という偏見があるからです、だからどう聞いても母国語は日本語という方にでも、どう見ても「アリガトウ」と片言しか喋れない外国人の方にでも、等しく「日本語上手ですね」と言われます。

笑える話なんですが、日本に住んでいる知り合いの日経ブラジル人は日本語がかなり流暢に話せるのですが、たまに言葉に詰まることもあり、私に英語で単語を聞き、私は同じ意味の日本語の単語を教える場合も少なくない、にも関わらず、彼の人種、所謂、見た目だけで判断されて、彼は外国人だということは他人が知っているにも関わらず、「日本語上手ですね」だとか、英語にメニュー渡されれることなどはないらしいです。

でも、私の場合たまに「ハーフですか?」って聞かれるのですが、別に「ハーフ」と言う訳でもないのでこの答えに困る。大和民族でもない、ハーフでもないが、日本人です、って説明しても、だいたい相手が驚いたり、逆にもっと私のことを深くまで聞きたがりますが、正直これ頻繁にあるので、何回も私の家族の事情(プライベートとでも読んでいい)を赤の他人に説明することになるので、かなり良い心地悪い、そして大体説明しても結局の所「日本人」だと認めてくれない他人も多いので、時間の無駄になります。

そもそも、この「ハーフ」という言葉実態は日本人の精神的鎖国をよく表しています。結局の所、「純粋な日本人」と「ハーフ」は【違う】みたいな感じです。

日本の場合は「ハーフ」は「日本人のハーフ」という意味、すなわち「日本人」の部分はフォカスされ、実際にもう一つのハーフはカナダ人だろうが、イタリア人だろうがあまり関係ありません。

アメリカとかでは、ハーフやクオーターという言い方はしますが、意味合いはちょっと違う。 人種に重要な部分はなく、「私は黒人とアジア人のハーフです」「私はドイツ人クオーター」という言い方したりする。

話を戻すが、 私の存在はこんなに不思議だと思われる理由は見た所ではかなり簡単、現実世界は違うだとしても、多くの日本人は精神的に未だに鎖国状態だからです。

日本には移民が存在するという事実はだいたい何らかの理由で否定されます。

例えば、「ハーフ」と呼ばれる大和民族とそれ以外の民族の間に生まれた子供、片方はだいたい外国人の場合が多いのに、「国際結婚だから、移民ではない」、という風になるのですが、両親の片方はどう考えても移民です。

日本国籍を持ったない日系人は外国人のはずなのですが、こういう人は日本に移住しても、「日系人ですので、移民ではない」。

極端な話し、永住権や帰化した人も、どう考えても完全なる移民のハズなのですが、「サラリーマンだから移民ではない」などという移民という言葉に大きな偏見を持ち言うんですね。

それだけではなく、永住権の場合、永住者のはずのなに、永住権の申請をするときに「身元保証書」という書類も出さなければ行けないわけなんですが、知り合いの日本人が「身元保証人」になって、「滞在費、帰国旅費」などを保証するというわけで、「帰国旅費」を保証するってことは、「いつか国に帰る」という前提になっていますので、結局の所「移民ではない」。

帰化の場合は、前の国籍を廃止するから、「移民にならない」みたいな解釈になるのですが、現実では、どっちも移民の定義に入るはずですね。

日本では「移民」という言葉は汚い言葉になっています。例えば、他国では「移民局」は一般的に存在しますが、日本の場合は同じ働きをするものには「入国管理局」だとか「出入国在留管理庁」だとか日本語では書くのですが、英語の名前は「Immigration Office」、すなわち「移民局」といいますが、日本語の場合は絶対に「移民」という言葉を使いません。

「内は内、外は外」という考え方を持って人類を「日本人」と「外国人」、という2つの大きなグループに分けようとする。国も同じ、「日本」と「海外」、アメリカだろうか、イタリアだろうが、ソマリアだろうが、海外は海外、日本は日本。

「海外では」だとか、「海外に人気」「外国人は日本の好きな所」だとか、結局の所、日本以外の国は全部一つの大きなグループにまとめられて、日本だけは特別扱い、日本と海外(日本以外の全世界)は違う。

この精神的鎖国をうまく表すのも、日本人の英語への抵抗と扱い方です。

まず、日本での英語の教育はみっともない。英語をカタカナを利用して教えようとするとか、説明は全部日本語のままで、単なるフレーズだとか単語だとか覚えるだけで、他人とのコミュニケーションとしてはなんのやくにも立たない。

日本によく見る英語のサインとかはよく間違えたりしますが、「日本人は英語読めないので大丈夫」というふうに納得する。日本人は外来語が話せない、外国人は日本語が話せない、こういう考え方は多いじゃないかなと思います。

知っている限りでは、日本以外の国の多くでは、英語が利用されるSNSやサイトに参加することが多い(たとえ英語力はそんなに高くないとしても)、でも私は見た限りでは日本では日本語のページしか見ない、日本語の情報しか目を通さない場合も多いから、結局のところ情報の元が限られるから、他国の人間と国際的な情報はそこまで豊かではありません、偏った情報も多く、結局の所、海外の情報を手にするには、「海外では」という自分の意見も交じる誰かの記事を読まなければ行けない場合も多い。

この精神的鎖国のせいで、人の見える世界が狭く、同じ精神的鎖国に囚われている人同士に支えたり慰め合いするのです。

日本は単なる世界では色んな国の中の一つでしかない。その中で自分の立場などを分かるには、世界全体を国際的な目で見なければ行けないはずなんです。見ないと、日本は特別という自己満足的なことで終わってしまって、国際社会にの動きも見えず、「海外はかわんないー」というスタンスでは、日本はもっと豊かにならず、進歩せずにどんどん日本の立場が弱くなる一方です。

まずは現実を見ましょう。

日本には移民がすでに存在し、日本語を話し、共に暮らしています。

  • 国籍は人種に連結されません。
  • 人のアイデンティティも国籍や人種に連結されません。
  • 話せる言語は国籍、人種、住んでいる国に必ずしも繋がっていません。
  • 人種や国籍で人を決め付けると痛い目にあいます。
  • 英語はカタカナや日本語を利用して学ぶのをやめましょう。
  • 日本は世界規模では一つの国でしかありません、そして昔の国際的な力がもうありません。
  • 日本の外にある国を「海外」でまとめちゃ何もわかりません。
  • 国際社会に関心を持たないとおいていかれちゃう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です